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午前3時の社会学


はじめに

こんにちは。
地域コミュニティ推進課の赤松です。
いきなりですが、クイズを少々。

“世間に出てみれば、敵がたくさん待っていること”を表すことわざといえば…

「男子家を出ずれば七人の敵あり」
ですが、

“世の中には無慈悲な人ばかりではなく、親切な人も必ずいること”を表すことわざとは?

答えはこの記事の最後から7行目。

本日は丑三つ時のちょっとあと、午前3時台の暗やみのなかで人とのつながりやコミュニティを考えた、そんなお話。

世の中には2種類の人がいる

世の中には2種類の人がいる。
午前3時を「深夜」と呼ぶ人と、「早朝」と呼ぶ人だ。
かく言う私は午前3時を「早朝」と呼び、一日の始まりの時間として楽しんでいる。もっとも、私もちょっと前まではこの時間を一日の終わりの極みとして「深夜」と呼ぶ側であったが、年頃やんちゃな息子を早々に寝かしつけなければならないようになってからというもの、子どもと一緒に寝落ちし、午前3時前に起きる生活が定着してしまった。

そんな午前3時頃の私の楽しみ方は、まちの散歩だ。はっきり言っておこう。徘徊ではない、散歩だ。目的は健康のためというありふれたものだが、何せ散歩の時間が時間。この話を初対面の方にすると大抵の場合驚かれる。
そもそも、早朝3時とはどんな時間なのか、説明しておかなければならないだろう。
この時間は丑三つ時、つまり午前2時のちょっと後であって、古くは妖怪やモノノケがまちなかに出没する時間帯として恐れられてきたようだ。「百鬼夜行」という言葉を耳にしたことがある方もいるだろう。妖怪やモノノケがまちなかをこぞって闊歩する「百鬼夜行」が繰り広げられるときこそ、まさにこの時間帯。

「百鬼夜行」のイメージ(イラストACさんから)

物騒ともいえるこの時間、実際のまちはどんな様子なのか。
興味を抱いた方はぜひとも布団を畳んで、足を踏み出してほしい。そして、踏み出してみたならば、こんな感想を抱くに違いない。

「人が、いない――。」

まちなかの「私。」という突起

当たり前といえば当たり前の感想だ。だって、昼間には車やバイクが駆け、ハトにスズメにカラスが空を舞い、人が行き交う雑然としたその空間に自分以外、めったに人がいないのだから。
自分以外に人がいない空間を歩いていると、まるでそこにあるモノが自分だけのために準備され、機能しているかのような錯覚が起きてくる。頭上から足下を照らす街路灯も、脈打つように点滅する信号機も、不気味に消費を訴えかける自動販売機も…、まちなかを一人歩く私のためだけに機能を全うしようとしている。

この自動販売機が消費を訴えかけるのは「私」だけという午前3時の世界

「私だけの、私のための」と錯覚させる空間に残ったのは「私。」という存在のみだ。まちなかにただ一つそびえたつ突起のように際立つ「私。」の存在は暗闇のなかで燦然としている。昼間、陽の光のもとで沢山の人に埋もれることに慣れっこになっていればいるほど、自分の存在だけが際立つこのような世界線に立つと、戸惑いと同時に強烈な“ぼっち感”に襲われてくる。しかし、安心してほしい。この感覚は明るい場所から暗闇に入ったときに目の前が真っ暗になるようなある種の生理現象のようなものであって、すぐに自分以外の存在がぼんやりと浮かんで来る。

大通りを通過するトラック、新聞配達に向かうバイク、どこか知らない場所から響き滲む救急車やパトカーのサイレン音は午前3時の世界を私と共有するどこかの誰かの存在に気づかせてくれる。そして、この時間に最も心躍る存在といえば、やはりこの時間に出会える人である。
自分の存在だけが際立ちやすいこの時間、同じ空気を吸う人の存在はたとえすれ違うだけの関係であったとしても、明るい世界ですれ違うどの人よりも重厚で特別だ。

よく知らない知人

意外に思われるかもしれないが、早朝のこの時間、まちなかにはぽつりぽつりと人が出歩いている。その中でも、私と同じ健康目的で散策されている方が最も多い印象だ。あてもない徘徊ではなく、目的地のはっきりとした早朝の散歩。
私たちの特徴は、この散歩が習慣になっており、出歩けば、毎度必ずすれ違うということだろう。「あ、いつものあの人だ」と頭の中で呟いたなら、すれ違いさまに不思議と次の言葉が出てくるものだ。
「おはようございます」
ひとりぼっちの暗夜行路、何かを共有できるどこの誰か「よく知らない知人」と出会う瞬間、人は思いのほか他人を受け入れやすいのかもしれない。

胸突くハット・トリック

ある日、こんなことが起きた。
いつもより少し早く家を出た私。いつもどおりまちなかの「よく知らない知人」の何名かとあいさつを交わしたあと、横断歩道の向こう側に何かちらちらを動くものを見つけた。時間が時間だ。何か、見てはいけないものかと思ったが、ひと安心。人間だ。
いつもなら横断歩道のずっと手前で挨拶を交わす帽子をかぶったおじいさん、その人が正体だった。

「おーい!」と帽子を振ってくれるおじいさん

ちらちら動いているものは、彼がいつもかぶっている帽子。
彼は、横断歩道の向こう側に見えた私の姿を見るや、帽子を振って挨拶をしてくれていた。
私はハッとした。私は彼の「仲間」なのだ、と。
帽子を振る、という動作は決して反射的な動作ではないだろう。
「お、いつもの彼か」と相手の存在を認め、受け入れる意志のある動作であったことが私は率直にうれしかった。そして、そのうれしさもあってか、私も自然に彼に手を大きく振っていた。この瞬間、彼も私の「仲間」になった。「早朝3時の世界を楽しむ会」とでもいうべき小さくも柔いコミュニティが紡がれた。
私と彼の関係は1日のなかでたった数秒、すれ違いざまに挨拶をするだけのたわいもないものだ。互いの素性も知らないし、深く知ろうとも思わない。そんなたわいもない関係であっても、互いに感じるシンパシーとほんのちょっと交わす言葉さえあればその関係は「仲間」や「同志」へとしなやかに変化していく、という気づきは私の胸を突いた。

陽の光が差し込み、多くの他人同士が行き交う日中のまちなかではこんな気づきを得ることは滅多にない。
帽子のおじいさんとのこの出来事を私は「ハット・トリック」と呼んでいる。

未知に飛び込もう。楽しもう。

「知らない人にはついていかない」
と子どものころ大人たちから教えられた教訓は今でも私の身体にこびりついている。身の危険を防ぐためには大切な心がけだと改めて思う。しかし、中年に差しかかり、見知らぬ知人たちとの柔いコミュニティを紡ぎはじめるようになった今、見知らぬ人に対する無条件の警戒を誘う教訓に対して私はほんのりとした危惧を抱くようになってきた。

関係性の糸口は常に自分にある

未知をひたすら怖がらせるかのようなこの教訓は、私たち人間がそれぞれの関係性を築いていく上では面倒な壁である。だって、人間関係の入口に私たちが立った時、誰しもが知らない人同士なのだから。

人は一人では生きていくことができない。
だからこそ、未知に飛び込む一歩が尊く、勇ましい。
世界を能動的に獲得しようと踏み出す一歩はつながりやコミュニティを紡ぐ入口だ。
糸口は常に自分側が握っている。未知の世界へぜひとも足を踏み出してほしい。

…といっても「世の中物騒だしねぇ」と不安を抱く人はいるだろう。
そんな不安を見透かしていたのだろうか、昔の人たちは不安をFun(楽しみ)へと昇華させてくれるいい言葉を残してくれた。

渡る世間に鬼はなし

未知を信じよう。楽しもう。
つながりはそこから――。

私は明日も午前3時、迷いなくまちへ出る。

※次回は、7月から開催中の「いこま未来Lab」の開催レポートをお届けします!自ら“未知”に飛び込んだ高校生たちの奮闘をつづったレポートです。ぜひ、ご覧ください!現場からは以上です!


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